感想‐唐辺葉介「暗い部屋」‐暗い部屋の窓はすでに開いている

暗い部屋死との距離の近さに目が潰れる「PSYCHE」。魂の不安を描いた傑作「犬憑きさん」。
知る人ぞ知る唐辺葉介の最新作「暗い部屋」、発禁処分を受けた本作への不安と期待の大きさといったらなかったと思うが、良くも悪くも期待を裏切る内容だったと思う。期待することなかれ。NOT SEX&VIOLENCE。物語は限りなく静謐で、あるのは、自分が自分でありたいというありふれた願い。


……とは言っても設定自体はかなり過激だ。窓をはめ殺し、10年以上も外との接触を絶ち、暗い部屋に住む母子。 その母を喪失するところから「暗い部屋」というお話が始まる。ガジェット(と言い切ってしまおう)は、ガスマスク・リストカット・近親相姦と世間から「異質」と後ろ指を差されるワードは盛りだくさん。しかしそれだけにヨダレを垂らしていると肝心のメインディッシュはいつの間にか下げられている。残るのは苦味だけ。それはあまりに勿体無い。

「ねえ、もうやめて季衣子。今お母さんはとても酷いこと言われているのよ? お願いだから、いつもの季衣ちゃんに戻って」
「私なんか何処でも何時でも酷いことばかり言われているわ! お母さんだってちょっとは苦しめばいいのよ!」
私の呪いの言葉に、お母さんは目を丸くして言葉を失うと、やがて一際大きな溜め息をつき、
「……育て方を間違えたわ」
そして頭を抑えて自分の部屋へ向かって行きました。

「わたし」が「わたし」であることの不安。
ひとりで対処できない不安だからこそ、友だちだったり、仕事だったり、家族だったりで、どうにかやり過ごす。それはどんなに歳を重ねても顔をもたげてくが、一番はじめに、「わたし」が「わたし」であるために必要な人として「親」がいる。「親」がいなければ、そもそも「わたし」なんて存在すらしない。あとはどこで子供は、彼らから手を離すかだが、手を離す前に「親」として子供に言ってはいけない言葉というものは確かにある。



八日目の蝉

「不倫相手の子供を誘拐する」内容の「八日目の蝉」という小説がある。物語は、誘拐、そして誘拐された子供のその後まで焦点が当てられているので、犯人の喜和子のその前、子供時代はそこまで大きくは扱われていないが、その中に印象的なエピソードがあった。喜和子が幼少の頃、親から「(身なりが)汚いから綺麗にしなさい」といつも言われていたというものだ。呪文のように繰り返されるそれに、喜和子がどう対抗し、この犯罪へと至ったか。詳しく語られる事はないのだが、子への毒というのはどこまでも人を歪める。それだけは確信を持って言える。

精太郎も季衣子も「親」から暴力的に手を離され、どうやって「わたし」を「わたし」にするのかという問題に立ち向かう。暗い部屋へと篭もるのか、戦うかのか、手を取り合うのか。それはプレイしてからのお楽しみだが、実はこれらの選択肢、どれも悪いものではない、という事だけ言っておこう。
しかし本作は登場人物の演出がピカイチに「ニクイ」。人物たちは絵や写真ではなく、揺らめく影としての演出は、小説では味わうことの出来ない、PCゲームならではの醍醐味だ。私という存在が溶けていきそう。空間と自分との境の曖昧さを言葉でなく、映像としてみせる。小説で無かった理由は、これだけで充分である。それとガスマスクをつけた彼女の存「在」感の異様さも付け加えて置きたい。そこから流れるように進むラストは必見。


小さな恋のメロディ [DVD]

僕は「暗い部屋」を美しい話だと思ってしまうのだが、そう感じるのはこの映画があったことが大きいかもしれない。「小さな恋のメロディ」。タイトルのとおり非常にかわいらしいお話で、「暗い部屋」とは真逆に見えるが、ラストの青空を臨む美しさはこれに通じる。ひとつ「暗い部屋」で不安があるとすれば、「小さな恋のメロディ」が3人の物語だが、「暗い部屋」は2人の物語な点。そう、意外と単純に思えるが、求める人数の問題。「わたし」が「わたし」であるために「わたし」に必要な最少人数は果たして何人なのだろうか、という話になる。